SSBB便り
2021.03.22
ディアナ号とプチャーチン
ディアナ号とプチャーチンをご存じの方はとても「富士通」です。但し、「富士通」とは言っても、あの有名な電機機器メーカーの「富士通」ではなく、「富士市のツー」な人のことです。
今回取り上げたディアナ号とプチャーチンは、アメリカの黒船軍団率いるペリーが1853年に下田に来航した(日米和親条約を結んだのは翌年)次の年1854年に同じく下田に来航したロシアの船・ディアナ号とその親分プチャーチン提督です。
そんなことが分る資料館『歴史学習施設 ディアナ号』が富士市の田子の浦みなと公園内にあります。では、早速紹介しましょう。
実は、このブログで、'14.6(もう7年前)にこの公園を紹介しましたが、その当時はこの船の形をした施設も左奥に見える展望施設(丘はありました)もありませんでした。では、ディアナ号に入ります。
施設の入口はこの船の左舷側にあります。
ここが施設の入口で、開館時はいつもドアは開いているようです。
施設内はそんなに大きくはありませんが、知識を得るには十分な内容で、興味深く楽しく見ることが出来ます。入ると正面にこんな展示パネルが目を引きます。
プチャーチンはこのパネルでも分かるように、提督らしい、なかなか立派な風貌をしたように見えます。
ディアナ号はアメリカの黒船軍団とは違い、ロシア皇帝の命を受けて、単独で来航した船ですが、その概要は・・・
全長53m、幅14m、排水量2,000トンの3本マストの木造帆船です。そして、 52門の大砲を搭載した軍艦だったのです。
しかし、条約交渉に入った翌日の1854年11/4、安政の地震の津波でディアナ号は破損してしまい、ここから凄いドラマが始まるのです。
11/26 船の修理のために、戸田(へだ;現在の沼津市戸田)に向けて出港。
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11/27 強風・大波のために、目指す戸田の港へ入れず海上をさまよい、富士の宮島村沖(田子の浦付近)に錨を下ろすが、沈没寸前となる。
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11/28~29 自分達も地震で大きな被害を受けたにも関わらず、地元民は500人もの乗組員の救助活動を行ったのです。
その模様を描いた図がこれです。
プチャーチンを始めとして、いろいろな人がその時の模様を書き記していて、それを読むと心を熱くさせられます。
伊東錬次郎が伝法村役場に頼まれて書いた手記
プチャーチンが書いた報告書
ディアナ号航海誌 ワシーリィ・マホフ著
『ディアナ号の沈没』「地震の記」より 山崎継述著
上のパネルの写真の文字が小さので読みにくいかもしれませんが、ディアナ号が沈没した時の具体的な状況が記してあります。そして、沈没してしまった船から脱出した船員を地元民が温かくもてなしてくれた「人間愛に基づく行為」に対して、最大限の感謝の気持ちが書いてあります。
沈没した駿河湾のおおよその場所が分かる図がありました。
ディアナ号沈没後の12/24、戸田で日本の船大工とディアナ号の船員とで新船を造り始め、それを「ヘダ号」と命名し、1955年3/10進水式が行われました。そして、3/22プチャーチンはその船でロシアに向けて出港したのです。
なお、「ヘダ号」を造る前の12/21、プチャーチンは下田の長楽寺で日露和親条約を結んでいるなど、キッチリと仕事をこなしていました。
この施設内の大型テレビでアニメ仕立てのこのリアルドラマが見れます。
戦後になった1654(昭和29)にディアナ号の1基目の錨、1976年(昭和51)に2基目の鎖を引き揚げて、それぞれを戸田の造船郷土資料博物館と富士市の三四軒屋緑道公園(下左の写真)とに置かれています。しかし、船体はとうとう発見されず仕舞いです。また、1994年(平成6)にはロシアよりプチャーチンと日本の漁夫の「友好の像」(下右の写真)が寄贈されて、富士市の広見公園に設置されています。
さあ、いかがでしたでしょうか? ディアナ号とプチャーチンが富士市とこんなにも縁があったのかが分かってもらえたことと思います。機会があったら是非『田子の浦みなと公園」においでください。景色も素晴しい公園です。
by【S.H】