SSBB便り

2022.02.21.

城ケ崎ブルース(昭和歌謡第2弾)

 

昭和43年に発売された、黒沢明とロス・プリモスのヒット曲です。

1 城ケ崎ブルース1

 

 昭和41年にデビュー曲「ラブユー東京」で人気が出たこのグループは、次々にヒット曲を連発していくわけですが、デビュー2年後の昭和43年には、この「城ケ崎ブルース」のほかに「たそがれの銀座」、「ラブユーいとはん」、「恋の銀座」、更に「さようならは五つのひらがな」など多くのヒット曲を出した年です。

 

ところで、この城ケ崎ブルースの舞台となった伊豆の城ケ崎海岸ですが、静岡県伊東市にある名所です。次の地図で確認してください。伊豆半島の東側になります。

3 伊豆半島

 

 

 

♪ゆかねばならぬ 男がひとり ゆかせたくない 女がひとり♪ でスタートするこの曲は、作詞者が星野哲郎ということもあり、城ケ崎海岸にはその歌碑が建っているのです。それも2か所に・・・。 

 

最初に建てられたのは、ボラ納屋付近にあるもの。作詞者名;星野哲郎と3番の歌詞のみが彫られています。

2 ボラ納屋
6 歌碑

    最初に建てられた歌碑      歌詞は何故か3番のみが彫られています

7 ボラ納屋

ボラ納屋(飲食店)の目の前に歌碑があります

 

 

そして、あとから建てられた歌碑は、灯台や吊り橋付近の城ケ崎のメインスポットでもあるし、最初のものに比べデラックスに出来ています。片側に最初の歌碑と同様、作詞者名;星野哲郎とやはり3番のみの歌詞、もう片側には五線譜にメロディーが彫られています。そして、作曲者名;岡野幾生も刻まれています。

4  城ケ崎海岸

左に灯台、右に吊り橋が見えます

5 城ケ崎海岸2

吊り橋は、渡ると、かなり揺れます。この先に灯台。手前に歌碑があります。

7 歌碑

    こちら側には、歌詞

8 歌碑(裏

    こちら側には、五線譜が

 

 

静岡県内には、昭和歌謡や童謡・唱歌の舞台になったところが結構あります。特に伊豆には幾つものスポットがあります。歌謡曲では「湯の町エレジー」、唱歌では「みかんの花咲く丘」を代表に、数々のヒット曲の舞台になった場所があります。ですから、これからの行楽シーズンには、そんな場所を探しながら巡る伊豆の旅に出てみてはいかがですか。

                                             By【S.H】

2022.01.21.

石狩挽歌

 

1975年(昭和50年)6月に、北原ミレイの歌として発売された歌として有名な『石狩挽歌』。

15 石狩挽歌

https://www.youtube.com/watch?v=Y3YqJupkRnQ

この歌は、作曲;浜圭介、作詞;なかにし礼ですが、この詞を見ていたら、「これは一体何?」 という分かり難い単語が散見されます。次の歌詞をご覧ください。
特に、ピンク色で示した単語。

 

1.海猫(ごめ)が鳴くから

  ニシンが来ると

  赤い筒袖(つっぽ)やん衆が騒ぐ

  雪に埋もれた 番屋の隅で

  わたしゃ夜通し 飯をたく

  あれからニシンは

  どこへ行ったやら

  破れた網は 問い刺し網

  今じゃ浜辺で オンボロロ

  オンボロボーロロー

  沖を通るは 笠戸丸

  わたしゃ涙で

ニシン曇りの 空を見る

 

2.燃えろかがり火 朝里の浜

  海は銀色 ニシンの色よ

  ソーラン節に 頬そめながら

  わたしゃ大漁の 網を曳く

  あれからニシンは

  どこへ行ったやら

  オタモイ岬の ニシン御殿も

  今じゃさびれて オンボロロ

  オンボロボーロロー

  かわらぬものは 古代文字

  わたしゃ涙で 

  娘ざかりの 夢を見る

 

 

上の歌詞の1番の歌詞では、「ごめ」・・・これは漢字で「海猫」と書いてあるので、海鳥のウミネコで特に問題ないです。

「筒袖(つっぽ)」は火消しが着る筒袖同様の袂(たもと)のない半纏(はんてん)のようなもの。

「やん衆」は、季節漁師のような人々のこと。

「問い刺し網」は浮き子の付いた刺し網の一種の漁網。

そして「笠戸丸」・・・日本一波乱に富んだ船で、説明は後回しにします。

 

2番、「朝里の浜」は小樽にある日本海に面した浜で、海水浴場としても有名。

「オタモイ岬」、これはアイヌ語で、「砂浜のある入り江」と言う意味の小樽にある地名です。

そして、最後に「古代文字」。なんで唐突にこんな単語が。。。これは、小樽にある続縄文遺跡の「手宮洞窟」で発見された文字で、やはり小樽では名所になっています。

 

 

では、後回しにした「笠戸丸」について・・・。下の写真のように大変立派な貨客船です。

笠戸丸

 

 

笠戸丸の略歴は・・・

  • 1900年 造船会社で建造・竣工され、ポトシ(Potosi)として命名され、のちにロシアの船会社で貨客船カザンKazanとして使用される
  • 1905年 ロシア海軍の病院船として日露戦争に参戦。旅順港内で被弾し沈座していたのを日本海軍が浮揚し捕獲。戦利品として日本海軍に移籍し「笠戸丸」と改名。
  • 1906年 海軍省より東洋汽船が運航委託を受け、ハワイへ移民646名を運ぶ。
  • 1907年 ペルー移民452名を乗せて神戸港を出港。同年、メキシコ移民275名を乗せ横浜港を出港。さらに同年、メキシコ移民294名を乗せ横浜港を出港。
  • 1908年 ブラジルへ第一回移民781名を運ぶため、神戸港を出航。
  • 1910年 大阪商船が台湾航路に使用するため傭船し就航。
  • 1912年 海軍省から大阪商船に払い下げ。同社の南米航路に使用される。
  • 1930年 大阪商船から鹽崎與吉に売却され、いわし工船に改装。
  • 1931年 東洋工業に売却される。
  • 1932年 ミール工船に改装。
  • 1934年 新興水産に売却され、後に太平洋漁業に移籍する。
  • 1939年 日本水産に移籍、後に日本海洋漁業の所有となる。
  • 1945年 カムチャツカ半島・ウトカ港で水産加工品の積み込み中、ソ連軍により捕獲、乗組員を下船させ、数名の病人をのせたまま空爆を受けて沈没。

 

 

上記のように、笠戸丸は「日本一波乱に富んだ」歴史があります。上記は略歴なので、大分端折って書きました。そんな笠戸丸が「石狩挽歌」に出て来るのは、上の略歴から見ると、1930~1940年頃の時代と推測されます。 

 

 

その「笠戸丸」にも増して、この曲の出で立ちには、なかにし礼の人生が色濃く反映されていたことに大変興味が沸きました。

彼が幼少時、小樽に住んでいた頃、家は貧困の中にあり、兄はバクチのような鰊(にしん)漁を行ったことがありました。そして、折角大漁に恵まれたのに、それに満足せず、わざわざ本州まで運んで高く売ろうとしたために、その大量の鰊を腐らせてしまい、全てを失い膨大な借金だけが残り、一家は離散することになったのです。なかにし礼のそうした原体験とでも呼べるようなものが、この歌には込められています。

   なかにし礼のWikipedia
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%97%E7%A4%BC

ある時期、なかにし礼が作詞に行き詰っていた時に、兄が現れて「鰊のことを書けばいいじゃないか」と言ったそうです。そうしてこの作品は生まれたのです。なお、この曲は日本作詞家大賞の作品賞にも選ばれています。

小樽市の西北の祝津(しゅくつ)岬にある、鰊御殿の旧青山別邸には、石狩挽歌の記念碑と、
なかにし礼直筆の歌碑があるそうです。是非一度行ってみたいですね。

記念碑

 

 

 

いかがでしたか? このブログでは今回初めて「歌」に関する話題を取り上げました。普段何気なく歌っている歌でも、その背景を見ると(知ると)かなり奥深いものがあったことに気付かされました。    

                                                         By【S.H】

2021.12.19.

柚野公民館【ポインセチア&カラクリ時計】

 

静岡県富士宮市の郊外に『柚野(ゆの)公民館』があります。
この公民館の周囲や内部には、季節の花々がいつも綺麗に植えられていて、公民館の利用者を和ませてくれています。特にこの時期はポインセチアが目を引きます。

 

2018年2月にも、このブログでここのポインセチアを取り上げましたが、あれから3年10か月経った現在のポインセチアは更に成長して、ボリューム感がアップし、見た目が一段と華やかさを増しました。

 

 

 

いかがでしょうか? これだけ見てもスーパーなどで見るクリスマス用のポインセチアとは全く違う雰囲気のものだということが分ります。もっと見ていきましょう。

 

 

 

よく見て見ると、色だけではなく、花や葉の形も違うんです。不思議です。

更に見てみましょう。

 

 

 

これらは全て鉢植えですが、一鉢に1本もあれば、2・3本植わっているのもあります。そして、不思議なのは、一本の木から白とピンクの花を付けているものもあります。

 

 

 

これを育てている、公民館の佐藤調整役(かつての名称「館長」が廃止され、現在は「調整役」と言う名称になっています)によれば、前にも書きましたが、

育て方の三つのポイントは

 ①温度を10度以上に保つこと

 ②乾燥気味にすること

 ③日光によく当てること

つまり、寒くて湿っている環境が苦手な植物だそうです。

 

 

さて、この公民館は「優良公民館」として、去年の2月に文部科学大臣から表彰されています。全国で5か所の内の一つで、大変名誉なことです。その副賞?としての記念品のカラクリ時計が壁に掛かっています。さて、どんな動きをするのでしょうか? 本来は毎時に作動するのですが、撮影のために特別にスイッチを押して、強制的に作動させてもらいました。
   カラクリ時計動画⇒⇒⇒ https://www.youtube.com/watch?v=k2BgKRchP2A

 

 

 

いかがでしたか? こんな柚野公民館に、機会があったら立ち寄りしてみてはいかがでしょうか。調整役(館長さん)を始め、スタッフの皆さまは気さくな人たちばかりです。是非どうぞ。

最後になりましたが、公民館の外観と周囲の案内看板の写真も掲載しておきます。

 
公民館案内Google地図

https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%9F%9A%E9%87%8E%E5%85%AC%E6%B0%91%E9%A4%A8/@35.2262104,138.4677441,11.25z/data=!4m5!3m4!1s0x601bcffc7ea7c98b:0xe0eb8b5c57675ad8!8m2!3d35.2574044!4d138.5540576

                                                       by【S.H】

2021.11.22.

フェルケール博物館

  

静岡県清水区にあるフェルケール博物館に行ってきました。
1978年に発足した「清水港湾資料館」が、1991年には「清水港湾博物館」として新たに開館したもので、その愛称が「
フェルケール博物館」ということです。
そしてフェルケールとは、「交通」「交際」を意味するドイツ語です。

先ず、この博物館の入口及び外観がとてもシックで、ハイセンスなのには驚きました。

 

 

いかがでしょうか? 「港湾」らしからぬ? オシャレさと重厚さを感じさせる外観のイメージです。では、早速中に入ってみましょう。通常ですと、入場料は大人一名400円ですが、本日は2階で開催される「企画展示室」が見れないために、1階の常設展示のみに付き、200円でした。

 

 

 

玄関ホールに入るとすぐに、受付があり、そこで入場券を購入します。するとその隣に「缶詰め製造機」があり、その場で好きなもの(腐敗するものはダメ)を入れて、缶詰として持ち帰れるのです。料金は150円とリーズナブルで面白いです。

 

 

 

次は、お土産コーナーです。

 

 

では、本来の展示物の部屋に進んで行きます。最初は【展示室1】「清水港の歴史」です。

ここでは、主に清水港の歴史を紹介していて、清水港に所縁(ゆかり)のある精密な船の模型が興味を引きます。最初に現れるのが戦艦「長門」ですが、次から次と現在も活躍している船の模型など、船マニアには堪らないです。

神奈川丸 日本郵船が1896年、イギリスの造船会社に作らせた6千トン級の船で、インドの綿花を輸入するために使った。

大宝丸 清水港を基地に活躍した西洋型帆船。1880年、清水の回漕業・鈴与の4代目鈴木与平氏が某神社に奉納した絵馬を元に復元したもの

タンカー レオニダス 日本鋼管㈱清水造船所で1953年竣工したタンカーで、総トン数13,559tと当時の清水では最大級だった。船籍はギリシャ。

RO-RO船 フェリーのようにランプを備え、トレーラーなどの車両を自走させて収納できる車両甲板がある貨物船。

 

清水港周辺の空からの様子が分かるジオラマで、フェルケール博物館の位置もよく分かります。

 

 

現在の清水港・新興津ターミナルの模型

  

 

そして、以前、このブログ(2019年8月)でも紹介した、地球深部探査船「ちきゅう」の模型もありました。この船は、現在ここ清水港を母港として活躍しています。

 

 

 

次は【展示室2】「港湾の仕事」です。ここでは、清水波止場での荷役(荷物の積み降ろし)の変遷を紹介しています。

昔の、石炭を運ぶ様子。(等身大の人形)

エキゾチックな顔をした人夫は、結構ハンサム?です

 

 

 

明治時代後半から始まった海外への直輸出が始まり、日本最大の茶輸出港となった清水港の特徴と言える「輸出用茶箱と蘭字(茶箱に貼られていたラベル)」は当館のウリになっているとのことです。

  

 

 

次は【展示室3】「和船」です。駿河湾周辺を航海していた和船の約1/10の模型とその建造方法を紹介しています。展示室1の模型とは違って、かなり大きい模型なので、迫力があります。船に積まれていた船箪笥は実物で、船が事故等で沈没してもその中身は保護されているその構造は凄いです。

 

 

 

以上の他にも、ギャラリーコーナーやジュエリーコーナー、また館外には缶詰記念館、そして、かなり離れますが、別館の水口屋ギャラリーもあります。

なお、トップの写真の看板にもあるように、11/20から約2か月間は当館の2階で企画展「船と海とともに」が開催されています。船の科学館のコレクション;山高五郎の船舶画だそうです。興味のある方は、どうぞ足を運んでみてはいかがでしょうか。

近くには、前回紹介した「次郎長通り商店街」「ちびまる子ちゃんランド」もありますよ。

      フェルケール博物館のH.P

   www.suzuyo.co.jp/suzuyo/verkehr/                

                                                    by【S.H】

2021.10.21.

次郎長通り商店街

 

静岡市清水区にある『次郎長通り商店街』

清水港の近くに清水次郎長の生家があります。そして、その生家がある通りは『次郎長通り」と名付けられ、商店街になっているのです。

 

概略の位置は次の地図の通りです。

次郎長通り商店街 地図1
次郎長通り商店街 地図2

 

 

 

JR清水駅から来ると、ここが商店街の北側の入り口です。角はたばこ屋さん。

 

 

 

南北の順不同になりますが、ご覧ください。

 

 

 

シャッターが下りているお店がとても多いです。そして、開いているどのお店も昭和的なノスタルジックを感じる佇まいです。続きをどうぞ。

 

 

 

こうして写真で見ると、通りの片側は電柱もなく、スッキリとしてきれいな感じですが、通りに人影が少なく、閉まっているお店が多く、淋しさを感じます。

 

 

ところで、この通りの中ほどに国登録有形文化財にもなっている『次郎長の生家』があるのです。

 

 

ここは、毎週火曜日が定休日になっていますが、入場は無料です。では、中に入って行きます。

建物に入って、すぐ左正面の壁左側に清水一家の面々の写真、右側には子分全員の名前の掛札が掛かっています。

この掛札、なんて書いてあるのか・・・チョット読みづらいです。上段の右端は「大政」でその左横が「小政」のようです。

 

 

後ろ側の壁には、次郎長の写真と説明パネルが掛かっています。

 

 

 

では、次の間です。

 

 

 

鴨居の上に掛かっている肖像画。左端が次郎長の妻(三代目お蝶さん)

「三代目お蝶さん」とは・・・。次郎長は生涯4人の妻を娶ったのですが、最初の妻は「きわ」さん、2番目が「お蝶」さん、3番目、4番目は「お蝶」と名乗らせたそうな。次郎長より17才年下の三代目のお蝶さんが最も長く23年間、妻として仕え、次郎長一家をしっかり陰で支えてきたそうです。次郎長の最期も看取り、その後81才まで生きました。

 

 

前にあった子分の掛札は読みにくかったですが、こちらは、生家内のお土産品売り場にあったもので、とても分かり易いです。右から3番目に「森の石松」って書いてあります。

 

 

 

最後は建物内全体を通した様子です。

 

 

 

 

いかがでしたか? 「次郎長通り商店街」というネーミングがインパクトがあり、次郎長の生家があるということで、チョット覗いてみたくなります。機会があれば是非訪問してみる価値ありです。

  関連のホームページhttps://shizuoka.tokaido-guide.jp/shukuba
 
  この中にある「宿場町」の内、「江尻宿」に次郎長通りがあります。

                                             By【S.H】

 

株式会社ユースク

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URL:yusuku.co.jp

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